国際対話カフェ vol.12
登壇者 : 斎藤賢人 (デンマーク日本人会 SOSUヘルパー ペタゴー)
2026年8月30日(日) デンマーク時間:10:00-12:00、日本時間:17:00-19:00
オンラインZoom使用
はじめに 福祉先進国の「制度」ではなく、そこで働く人の迷いを聞く
「デンマークの障がい者福祉は、日本より進んでいるのは、どういう点?」
しばしばこのような問いを受ける。
確かに、デンマークは福祉国家として長い歴史を持ち、ノーマライゼーションや自己決定を重視する考え方も社会に根づいてきた。しかし、今回の国際対話カフェで私たちが聞いたのは、「デンマークは、こんなにいいよ」といううらやましい光景の紹介だけではなかった。
登壇した斎藤賢人さんは、日本で保育士として働いた後、デンマークへ渡り、現在まで約10年間暮らしている。デンマークではSOSUヘルパー、さらにペダゴーの資格を取得し、現在は身体障害と知的障害を併せ持つ成人が暮らす施設で働いている。
斎藤さんが語ったのは、福祉先進国の完成形ではない。
「この人は本当は何を望んでいるのだろう」
「本人のためと思っていることは、本当に本人のためなのだろうか」
「自分は支援しているつもりでも、本人の自由を奪っていないだろうか」
そんな、日々の支援の中で答えの出ない問いを持ち続けている一人の専門職の姿だった。
そこに、今回のテーマの本質があった。
1 施設だけではなく、家の暮らしも
斎藤さんの勤務する場所には、16人の利用者が過ごしている。二つの棟に分かれ、一方には主に自閉症のある人たち、もう一方には身体障害と知的障害を併せ持つ人たちが暮らしている。斎藤さんが現在担当しているのは後者である。
朝、職員が出勤し、その日の担当を確認する。
着替え、食事、入浴などを自宅で支援し、午前中から午後にかけては併設するデイサービスで過ごす。そこでは工作、庭での活動、焚き火、簡単な料理、音楽などさまざまな活動が行われる。その後、自分たちの自宅へ戻り、夕方からは散歩や食事、入浴などをしながら、比較的ゆったりと過ごす。
興味深いのは、単に「支援を受ける施設」だけではなく、利用者の自宅生活も含めて生活支援としている。
だから「今日は何をさせるか」より、「この人は今日をどう過ごしたいのか」が問われる。
もっと活動した方がよい。運動した方がよい。規則正しい生活をした方がよい。

2 できないは、意思がないのではない
斎藤さんが現在関わる利用者の多くは、言葉によって意思を伝えることが難しい。
身体障害も重いため、ジェスチャーによる意思表示も限定される。そのため職員は、アイコンタクト、表情、身体の小さな動き、口を開けるかどうかといったわずかな変化から、本人の意思を推測する。
例えば食事で、口を開けない。
「食べたくないのかもしれない」
「この味が嫌いなのかもしれない」
「体調が悪いのかもしれない」
そこで別の食べ物を試す。
音楽を聴かせた時の表情を見る。マッサージをして反応を見る。隣に座って静かに時間を過ごしてみる。
斎藤さんは、それを「トライ・アンド・エラー」と表現した。
重要なのは、
「意思表示できない人」と考えるのではなく、「意思はある。しかし、受け取れていない」と考えること
である。
参加者からも、「意思表示できない人なのではなく、思いがあるのに職員がキャッチできていないだけ、と捉えることで利用者を尊重できる」という趣旨の意見が出た。
斎藤さん自身も「こちら側がキャッチできないのだと思う」と応じている。
この言葉は、障がい者支援だけの話ではない。
子ども、高齢者、認知症の人、日本語を十分話せない外国人――自分の思いをこちらの期待する方法で説明できない人に対して、私たちは簡単に「分からない人」「意思がない人」と判断してしまう。
しかし、本当にないのは本人の意思なのか。
それとも、こちらの「受け取る力」なのか。
この問いは重い。

3 自己決定とは、「好きにしていい」ということなのか
福祉の世界では「自己決定」という言葉がよく使われる。
しかし、現場に置くと途端に難しくなる。
例えば、歯磨きを嫌がる人がいる。
自己決定を尊重するなら、「嫌ならしなくてよい」と考えることもできる。しかし、歯磨きをしなければ虫歯や口腔内の問題が起き、結果として本人が痛みや治療を負うかもしれない。
足を洗うことを強く拒否する人がいる。しかし洗わなければ皮膚の問題につながる可能性がある。
運動した方が健康によい。しかし本人は運動したくない。
「本人の意思」と「本人にとって望ましいと支援者が考えること」が一致しない場面で、どちらを優先すべきなのだろうか。
今回の全体対話でも、斎藤さんはまさにこの問いを投げかけた。
「本人のためと思って行う支援は、どこまで本人のためなんだろうか」。
答えは簡単には出なかった。
斎藤さんが紹介した一つの方法は、「完璧を求めない」ことだった。
歯磨きを嫌がるなら、「十まで数える間だけやろう」と短くしてみる。歌いながら気持ちをそらしてみる。それでも無理なら、「今日はここまで」とする。
支援者が「健康のためだから絶対にやらせる」と意地になった瞬間、支援が支援者と利用者の勝ち負けに変わってしまうことがある。
だからこそ、一度立ち止まる。
「これは誰のためにやっているのだろう」
と自分に問い直す。
自己決定とは、何もしないことでも、本人の希望をすべてそのまま実現することでもない。
本人の意思、健康、安全、生活の質をどう両立させるかを、その都度考え続ける営みなのだろう。
4 支援者は「権力」を持っている
今回の話の中で、最も印象に残った言葉の一つが、
「支援者は、権力を持っている」
という言葉だった。
例えば、職員が用意した活動に何度も参加しない利用者がいたとする。
「わがままな人だ」
「職員の注意を引きたいだけだ」
と解釈することもできる。
一方で、
「音が苦手なのではないか」
「匂いが嫌なのではないか」
「活動が難しすぎるのではないか」
「何か不安があるのではないか」
と考えることもできる。
同じ行動を見ても、支援者の解釈によって、その後の支援はまったく違う方向へ進む。
「注意を引いているだけ」と決めつければ、本人の行動を問題行動として扱うかもしれない。
しかし「何か理由がある」と考えれば、環境や活動内容、身体状態を調べようとする。
つまり支援者は、本人を直接動かす力だけでなく、
「この人はこういう人だ」と意味づける力
まで持っている。
その意味づけが記録され、他の支援者に共有されれば、一つの解釈がその人の「人物像」になってしまう可能性もある。
だから、専門職には知識だけでなく、自分自身の解釈を疑う力が必要になる。
斎藤さんの職場では、職員同士で意見が違う時、一人の感覚だけで決めず、利用者の状態を一定期間記録し、どの時間帯に、何をしていた時に、どのような反応があったかを表にして検証することもある。
声の大きい職員の意見だけで決めない。
観察し、記録し、みんなで考え直す。
その姿勢は、支援者が持つ「解釈する権力」を少しでも制御するための仕組みとも言える。

5 支援は、一人で正解を出す仕事ではない
利用者の表情をどう読むのか。
ある行動の理由をどう考えるのか。
職員によって答えは違う。
だから斎藤さんの職場では、二週間に一度の職員会議だけでなく、日常的にも「これ、どう思う?」と周囲に尋ねながら支援を考えているという。
意見が大きく違えば、全体で話し合う。
日々の出来事や利用者ごとの小さな目標については記録を残し、次に勤務する職員も確認できる。過去の施設での記録や専門家の見解が残されている場合もある。
一方で、デンマークだから職場が常に対等で民主的というわけでもない。
施設長の意見が強く、多くの職員が納得していなくても決まってしまうこともあると斎藤さんは率直に語った。
ここにも今回も国際対話カフェらしさがあった。
「デンマークでは対話ができている」と美化するのではなく、制度があっても、人が働く以上、力関係や温度差は生まれる。
重要なのは、完全な職場を探すことではなく、「今の決め方で本当にいいのか」と問い直せることである。
6 ペダゴーは、生活を「してあげる人」ではない
斎藤さんは、SOSUヘルパーとペダゴーの双方を学んだ経験から、二つの専門性の違いについても話した。
SOSUヘルパーでは、健康、身体ケア、日常生活、リハビリ、疾病など、実践的なケアを重点的に学ぶ。
一方、ペダゴーでは、人の発達、心理、教育、支援理論、倫理などを学ぶ。資格取得後は、保育、障がい者支援、依存症支援など幅広い領域で働くことができる。
現在の職場では仕事内容が完全に分かれているわけではないが、ペダゴーは担当利用者について家族との連絡を行ったり、本人の生活上の目標づくりに関わったりする。
ここで見えてくるのは、ペダゴーを単純に「介助する職種」と訳すだけでは十分ではないということである。
生活をしてあげるのではなく、
その人が自分の人生を生きることに関わる専門職
と見る方が近い。
食事、入浴、移動といった行為だけではなく、その人が何を好み、どう暮らし、何に参加し、どんな生活を送りたいのかを考える。
そこに「自己決定」と「参加」という視点が入ってくる。

7 福祉大国デンマークにも「後退」はある
今回、斎藤さんが繰り返し強調したのは、デンマークを理想化しないことであった。
現在、福祉予算は厳しくなっており、以前なら利用者とキャンプへ行ったり、施設のリフト付きバスで外出したりできたが、予算削減によって難しくなったという。
現在は、施設周辺の散歩や近くのスーパーへの買い物など、限られた範囲の外出になることも多い。
さらに、民間施設で資金の不適切な利用や職員による暴力などが問題となり、施設が閉鎖された事例が報道されることもあると紹介された。
「福祉大国デンマークだから安心」という単純な物語ではない。
社会の中にも変化がある。
税負担を減らし、個人の自由をより重視したいという声や、「自分の子どもさえよければ」という個人主義的な傾向を感じるという話も出た。
斎藤さん自身、それがデンマークだけの現象でなく、世界的な社会変化なのかは分からないと慎重に語っている。
デンマークの価値は、問題がないことではない。
むしろ、福祉国家であっても揺れ、後退し、矛盾を抱える。
その現実を見ることが、デンマークを学ぶうえでは重要なのである。
8 それでも「声を上げる」ことが社会に残っている
その一方で、デンマークには市民が声を上げる文化が残っていると斎藤さんは感じている。
例えば、障がいや特定の疾病を持つ人や家族の団体があり、勉強会や活動を行う。
支援に問題があると思えば、家族が施設長に直接意見を伝え、さらに上の責任者へ話を持っていくこともある。
斎藤さんが担当する利用者の家族も、施設にバスがなく外出機会が減っていることについて、施設側へ積極的に意見を伝えているという。
斎藤さんは、それをデンマークが歩んできた民主主義運動や、「市民が声を上げる」歴史とも結びつけて考えていた。
福祉は行政や専門家が与えるサービスだけではない。
本人、家族、支援者、市民が声を出し、そのあり方を社会に問い続ける。
ここにも民主主義がある。
おわりに 「正しい支援」より、問い続ける支援へ
今回の国際対話カフェを通して、最終的に残ったのは、デンマークの制度一覧ではなかった。
残ったのは問いである。
本人が言葉を発しない時、本当に意思がないのか。
本人の健康のために行うことは、本当に本人のためなのか。
本人の選択を尊重することと、支援者として必要なことを伝えることは、どう両立できるのか。
そして、
支援者が相手を「こういう人だ」と解釈すること自体が、その人の人生を左右していないか。
斎藤さんは「支援者は権力を持っている」と語った。
それは、支援者を責める言葉ではない。
むしろ、自分の仕事が一人の人生に大きな影響を与えることを自覚するための言葉なのだと思う。
支援する人が強い立場にいるからこそ、自分の判断を絶対視しない。
一人で決めない。
観察する。
記録する。
他者の意見を聞く。
本人の小さな反応をもう一度見る。
そして何度でも、
「これは誰のためなのか」
と問い直す。
障がい者支援に限った話ではない。
子育て、教育、介護、医療、行政、地域活動。
誰かの「ために」何かをしようとするすべての場面に、この問いは存在する。
善意を持っていることと、相手にとってよいことは、必ずしも同じではない。
だからこそ必要なのは、「正解を知っている支援者」ではなく、本人と、その周囲の人たちとともに考え続けられる支援者なのだろう。
福祉先進国デンマークから今回学んだのは、完成された福祉の答えではない。
人を一人の人間として尊重しようとすると、簡単な答えほどなくなっていく。
その答えのなさから逃げず、問い続けること自体が、支援の一部になる。
それが、デンマークの障がい者支援の現場から聞こえてきた、最も大切なメッセージだった。
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